1 諏訪の考古学の伝統
諏訪地域の考古学が学術的に、本格的に調査研究されるようになったのは、『諏訪史第一巻』の編集から始まる。当時の信濃教育会諏訪部会の事業として『諏訪史全五巻』の発刊事業が計画されたのは大正5年のこと、東京帝国大学人類学教室の鳥居龍蔵によってそれから8年後の大正13年に発刊された。
『諏訪史第一巻』の特徴は、実際の資料を第一に考え、現地調査に基づく遺跡地名表の作成、採集遺物の豊富な紹介とそれらの考察にある。「考古地域史」がすでにこのとき実践され、しかも信州教育の原点がそこにあった。つまり教師一人ひとりがさまざまな分野で優れた研究者であり、その確かな知識が教育に生かされるようにという、信州教育の理念と実践の輝かしい伝統がそこにあった。鳥居が多くの教師とともに編纂に傾けた情熱や姿勢は、自然や本物の資料を教材とした自主的で創造的な科学的歴史教育そのものであった。そのことがまた、多くの考古学者をも育てたのである。
2 信州をこよなく愛し地域に根ざした研究を進めた考古学者 八幡一郎
鳥居龍蔵の調査に協力した地域の研究者や教師に混じって、諏訪中学の生徒が一人いた。後の日本考古学界をリードした岡谷市出身の八幡一郎その人である。東京帝国大学人類学教室に進んで、地域史編纂事業において鳥居を助け、仕事を引き継いで「郷土考古学」論を提唱した。
戦後、長く東京教育大学、上智大学の教授となって日本考古学界の重鎮として、指導者として活躍。誰より早く日本に旧石器時代の存在を予感したように、考古学の確かな現状認識とその研究の見通しと、洞察の鋭さを持っていた。これは地域の資料を詳細に観察して歴史資料に止揚する力量を、地域史や郷土考古学の実践の中で培われたからであろう。
諏訪の生んだ稀代の歴史学者の一人であろう。
3 遺跡には感動がある、地域に芽生えた原始集落の研究者 宮坂英弌
『諏訪史第一巻』の編纂には地域の学校の先生が協力を惜しまなかった。その中の一人に茅野市の宮坂英弌がいる。大正11年の最初の尖石遺跡発掘以来、尖石集落の全容解明に生涯をかけた、初代尖石考古館館長の宮坂翁である。
大正期の学術文化興隆のころ、ようやく、きれいな石器、ヤジリや石斧、玉類を拾い、土器を掘り当てて喜ぶのではなく、住居跡を発掘し、炉を探し、本格的に規模を広げた調査によってムラ全体を明らかにしようとする研究姿勢が盛り上がろうとしていた。そうしたなかで宮坂は、家族や地域の人々の協力を得つつ、黙々と壮大な目的に向かって尖石遺跡の調査を重ねていた。やがてそれは多くの中央の研究者の注目するところとなり、中央の学会で活躍していた八幡一郎の助力もあり、尖石遺跡は日本で最初に確認された原始時代のムラ、集落として意識されるようになった。
太平洋戦争開戦直前の厳しい状況のなか、私財を投げ打って行われた調査は、その後、諏訪のみならず全国に支援の輪が広がり、市民、生徒、学生、教育仲間の支援に発展したのである。数々の不幸を乗り越えて「尖石の鬼」と称されながらも発掘が続けられたのであった。
こうした宮坂英弌の地道な研究調査は、学界の偏重や先入観にとらわれずに、ひたむきに地域の特色ある固有の歴史を解明しようとする強い意志の表れであった。これこそ日本の考古学が受け継いでいかなければならない伝統であった。