八ヶ岳山麓 縄文文化の魅力

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4 人間的史観を貫いた考古学者 藤森栄一

 藤森栄一は、戦前、戦後をとおして、考古学という学問を糧にがむしゃらに生きた研究者であった。在野に在りながら、その謙虚な姿勢や人間的魅力、そして多くの著書によって、これほど多くの人材を学界を超えて育てた人はいないといわれる。
 それは過去の歴史を知るだけではなく、そこにはいつも生き生きした縄文人や弥生人、古代人の生活の様が描かれて、現在に生きる人にもつながる不思議な、魅力的な、人を惹きつける考古学の世界があった。例えば縄文時代研究に見られるように、縄文土器の年代的移り変わり(土器編年)や、最古の縄文土器をやみくもに求めるような、巧妙争いといった研究から開放され、縄文人の生活と歴史に生命と躍動を植え付け、ダイナミックな縄文観を打ち立てたのである


 そして、人間の歴史を明らかにすることが学問であるという姿勢は、「藤森考古学」と称されるほどである。一貫してすすめてきた八ヶ岳山麓井戸尻遺跡群の研究において、大勢の仲間とともに提唱した研究成果である「縄文農耕論」は、その学問の研究大系として生まれるべくして生まれてきたといってよい。
 また、世界的にも類のない芸術的な、岡本太郎流に言えば爆発したエネルギーの縄文土器を作り出した縄文人に対して、野蛮人という原始人のイメージを払拭し、畏敬の念を持って見つめることによって、現在に通ずる縄文人観を示したのである。


縄文時代研究の発展を促した縄文農耕論

 縄文農耕論において藤森は、巨大な集落や芸術的な縄文土器を生み出した縄文社会は、原始的な狩猟・漁労・採集経済社会から一歩進んで、クリの管理栽培、イモ類の栽培を行って社会の繁栄を産み出したと考えた。そして、その検証として集落研究、石器や土器の機能研究を総合的に、また体系的に組み立てて、縄文社会のあらゆる部分において、つまり食べ物、調理法、石器の用途、土器の用途など、生活の実際を復原していく姿勢は、考古学を一気に大衆の学問としたばかりか、多くの学徒に影響を与え、そしてまた研究者を育てたのである。


5 諏訪の考古学の伝統を継ぐ戦後派の考古学者たち

 八幡一郎、宮坂英弌、藤森栄一は、諏訪が生んだ三人の考古学の「巨星」であった。
 そして、「三巨星」の後を慕い、師と仰いで、戦後の考古ボーイとして考古学に傾倒し、平和で自由な時代の科学的考古学を引き継ぎ、諏訪地域には多くの研究者が育っている。
これについては別の機会に記述したい。


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