2018秋の一泊研修旅行
2018年11月19日
2018東京西地区の遺跡探索 印象記
山内一晃
八ヶ岳jomon楽会に入会して半年、遺跡探索は初体験。今回の訪問地は下野谷(したのや)遺跡と下宅部(しもやけべ)遺跡の二つ。東京西地区とは東村山、八王子、青梅などをいい、この地域は西側の秩父山塊と丹沢山塊で信州方面と大きく隔てられ、さらに甲武信岳を源流とする北の荒川と南の多摩川に挟まれた広大な関東台地の一翼を形成している。
遺跡を巡る旅は建築や庭園を見るのとは違い、視覚的対象物がない分、根本的に味気ないものだと思う。発掘された遺跡は殆どが埋め戻されて広場や公園になっているのが通例、尖石、棚畑、中ッ原遺跡もしかり。三内丸山のようにしっかり作られた遺跡公園もあるが、何か箱庭的に感じる。つまり遺跡の復元は固定的でレプリカの域を出ない。僕は考古学者ではないので出土品の年代測定、類似性や整合性の判定、科学的な同定などにはあまり関心がないが、一方、土器や土偶の発する訳の分からなさや、遺跡の存在する場所そのものについては大いに興味をそそられる。
僕の関心は遺跡のある場所の地形、地質、気候風土、周囲の景色や植生などの環境要素が、縄文人に与えた影響を読み解くところにある。また土器や土偶の文様表現が何を意味するのかを解釈するところにある。縄文人とはいかなる人々なのか、一万年の長きにわたって大した技術開発もせず、大集団も作らず、周囲のムラと戦って支配することもせず、まあ、平和な時を過ごしてきた。ヨーロッパはこれと逆で、殺戮と支配を繰り返して国家を作り上げた。ここには民族と宗教の入り混じった欧州大陸の複雑さの本質がある。
今回の遺跡探索は現地に立って土や風の感触を味わい、周囲の景色や地形を眺めながら縄文の昔に思いをはせる、このことが僕にとっては重要だった。今は存在しない縄文の生活風景を脳内に想像して自分なりのイメージを膨らませる。100人いれば100の縄文がある。物がないからこそ見えてくるものもある。
NHK番組「ブラタモリ」では、その土地の地形や地質を読み解き、町の歴史や文化の形成過程を解説するが、この番組のキモは、タモリ自身がその土地の地形や風土を重要と捉えていることである。「人類と気候の10万年史」では、地球の気候変動は天体の動きと連動していることを学んだ。谷と尾根が繰り返し連続する日本の地形にあって、河川流域に住み着いた集団もあれば、台地や丘陵に住み着いた集団もある。利水や日当たりは氾濫や土砂崩れと表裏一体であり、自然環境は着実に人々の生活に影響を与える。縄文人は何を根拠に住処の場所を決めたのであろうか。今回の縄文探索は、このようなことを考える契機を与えてくれたと思う。
東京西地区のほぼ中央に位置する狭山丘陵は、樹齢100年を超える大木を擁して往年の武蔵野の面影を残してどっかと佇み、2つの人口湖多摩湖と狭山湖は首都東京の水甕となっている。武蔵野丘陵と呼ばれる広大な一帯は、地形的には信州側と秩父丹沢山塊で大きく隔てられているが、土器や黒曜石の出土状態から、諏訪地域と頻繁な交流があったと推定されている。諏訪エリア、甲府エリア、武蔵野エリアは相模湾へと繋がる眉型地帯を形成する縄文文化の中心地であった。縄文遺跡の痕跡を巡ることで、ジオメトリーとしての地形の奥底に隠された古代縄文人の生活文化や行動範囲を想像してみるのも面白いものである。
以上