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八ヶ岳jomon楽会 会員の声ブログ > 活動の報告 > 縄文土器から300個の圧痕


2015年8月20日、長野県下伊那郡豊丘村の教育委員会で「伴野原遺跡出土の縄文時代の深鉢土器片1個体分から日本最多の種子圧痕存在」についてのプレスリリースがあった。この発表はNHK「しるしん」で同日午後6時10分から放映され、翌朝の信濃毎日新聞、南信州新聞に記事が掲載された。

この伴野原遺跡(豊丘村神稲地区)では、昭和51(1976)年に日本最大のパン状炭化物が発見され、大きなニュースとなった。その同じ現場から、バラバラになっていた埋甕の深鉢土器も発見されている。この土器片は復元されてもおかしくなかったが、発掘担当者の酒井幸則さんは復元しないで、土器片が並んで入るサイズの木製平箱を作って保管していた。酒井さんはそれらの1個体分の土器片に無数の圧痕があることに気づき、数えてみると185ヶ所あったので、後年の再調査のためにそのまま保管したという。当時はレプリカ法が開発されておらず、圧痕を調べられなかったとは言え、普通なら復元されるのをそのままの状態で40年間保存されていたのは素晴らしいことであった。その時の資料を後世での研究に託し、いかに活用してゆくのか、そのよい例である。

つまり、復元されずに土器片としてそのまま残っていたことが、レプリカ法を駆使しての圧痕の解明に繋がったのである。おかげで破片一つ一つの表裏、そして断面の圧痕を調べられる。これがもしも復元されていたら、断面を付き合わせてのシリコン注入は難しい。

明治大学研究・知財戦略機構客員研究員の会田進氏が代表である科研(B)「中部山岳地域縄文時代マメ栽培化過程の解明」グループは、総合研究大学院大学先導科学研究科助教の那須浩郎氏、(株)パレオラボ統括部長の佐々木由香さんの指導のもとに活動しており、主に筆者が所属する「縄文阿久友の会」会員で構成されている。同会会員の牛山、神尾、赤羽、新村、丹野、黒田、斎藤とともに、筆者も圧痕にシリコン(歯科で使われるもの)を注入して型取りをし、その型を実体顕微鏡、さらには走査顕微鏡で調べ、その圧痕が何であるかを確認する作業にあたった。この科研の作業は2013年6月から始まっていたが、2014年12月13日(土)に南信州豊丘村資料館へ出かけ、その土器片と対面した。私たちは大きなマメ圧痕がクッキリはっきり無数に見えることに興奮した。これはただならぬ遺物だとみんなが感じた。そしてその土器片入り木箱を拝借し、大切に原村に持ち帰った。こうして他のどの作業にも優先して、伴野原遺跡出土深鉢片のレプリカ採りが始まったのである。

 レプリカ採りは、2015年3月までを目処に行われた。土器片の表裏、目で見える圧痕は185ヶ所で、佐々木由香さんの同定では146個がアズキ亜属種子(ヘソあり16個ヘソなし130個)で、大きさは7.2〜9.6mm、その他はダイズなどの種子であった。さらにこの土器片75個をX線写真撮影したところ、圧痕の数は約300個に増えた。内部の圧痕119個はレプリカ採りができないので、アズキか何か分からないが、1個体分の土器片から判明した圧痕の数は日本最多の数であることは間違いない。

 ところで、縄文時代中期中葉4500年前の土器から出たマメ圧痕は、何を物語るのだろうか。土器に数個程度のマメ圧痕があるなら、土器を捏ねている間に紛れこんだと言える。しかし、数百個となると、紛れ込んだとは思えない。ここ数年、私たちはマメ入り土器を焼いている。土を捏ねて形を作り、そこにマメを押し込んで焼くと、破裂してしまう。最初から粘土に混ぜ込んで練り入れると圧痕も美しく仕上がって焼けた。この実験から、縄文人は粘土を捏ねるときにマメを混ぜ込んでいたことが断定できる。しかも、マメは土器全体に均一に入り、偏ることもない。ではなぜ、土器にマメを混ぜ込んだのだろう。私たちが考える一番安易な理由は、祭祀に使われたということである。翌年の豊穣を祈るマツリに使ったのか、何に使ったのかは分からないが、縄文人が意図的にマメを入れたことは間違いないと思う。大切な食料としてのマメ、彼らがマメを大切な命の糧としていたのだと考えられる。近年、縄文人の植物利用が解明されてきているが、クリ林を育て、ウルシの木を植栽していたことが分かっている。これまでマメの栽培は大陸からもたらされたと考えられていたが、北東アジアでも栽培化されていたことが分かってきているので、この300個のマメ、特に広義のアズキ146個は、これからの縄文時代の生業解明に大きな一歩を踏み出すきっかけとなりそうである。
文責: 山本郁子


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