雑感 「八ヶ岳JOMON楽会に参加して」
2017年09月05日
吉田 怜子
平成26年、秋田、青森方面に研修旅行に行くと聞いて、身の程(年齢・素養等)もわきまえず、ぜひ行ってみたいと入会させていただきました。私が縄文に興味を持ったのは、帰郷したばかりの平成2年秋、当時公民館まつりといっていた米沢の地区行事で、「縄文のビーナス」を一目見て、「何?これ?」と、正にド胆を抜かれた思いでした。それが契機で、市内各所の遺跡現地説明会と聞けば覗きに行き、資料や写真が目につけば手当たり次第に集め、それまで知らなかった世界に惹き込まれていきました。
『さっき「縄文のビーナス」が国宝に指定されるってラジオで聞いたよ』と、パート仲間に聞いたのは、職場を早退し、その足で小学校の新入職員歓迎会に参加の直前。地区選出の矢島市議は挨拶で、少々オーバーに米沢自慢をし、「ビーナス出土の地」とぶち上げました。私はつい先程聞いたばかりで、確信は持てないものの、議員にだけは一刻も早く知らせたいとヤキモキ。近寄って背後から耳元に囁いたのです。と、着席したばかりだった議員は、やおら立ち上がって「えー、只今お聞きしたところによりますと・・・」と大きな声で披露してしまったではありませんか。途端に「ウォーッ」という大歓声と、どよめきと、大拍手。会場は大興奮の場となってしまいました。こんな騒ぎが、私の又聞きで間違いだったらと、家に帰って電話で長野日報に確かめるまでの不安といったら、生きた心地がしませんでした。平成7年4月14日のことでした。
そして、平成22年、尖石縄文考古館は検定制度を始めました。ただの物好きの私が果たして通用するものか試してみようと受験。上級の時は76才。受験者中最高齢。生涯で最後の試験にしたいと思ったものです。
その後、考古館では学芸員の方が、月1回夜9時10時までも館内展示物など詳しく説明して下さった勉強会が続き、それがどれ程有難いことだったかと、今も心から感謝しています。
そんな折、東北旅行の話を耳にしたのです。平成22年大英博物館帰りの国宝土偶を上野の国立博物館で見てきてはいましたが、国の3つの特別史跡のうち尖石しか知らない私が東北の二つをこの足で歩き、この目で見られる機会はおそらくもうないだろうと思っての入会だったのです。それと、実は私は幼児から小学校4年生まで、青森と八戸の中間に位置する野辺地町で過ごしたこと。もう一つは50年前の教え子が八戸に嫁いでいましたので、ぜひ会ってみたいと思ったのも大きな理由でした。
その年の秋は北信巡り。八ヶ岳周辺しか知らない私は、人骨のないのは当たり前くらいの感覚でしたから、北村遺跡の人骨、高山村の抱石人骨の実物には興味をそそられ、果てしなく深く広い未知の世界を実感いたしました。
そして平成27年は北陸のチカモリや、能登半島真脇遺跡を見学。共同で入り江に追い込んだイルカを捕獲して食べていたと知り、海と山との縄文人の対象を想像する楽しさも知りました。
バスの中での会田先生のお話も印象的です。風穴の里から安房トンネルを飛騨側に抜けながら、明治大正昭和と、野麦峠を越えて岡谷に働きに来た糸取工女にまつわる話。脚色されすぎた「哀史」をちょっぴり批判された口調。その時とは別の機会でしたが、現在に通ずる「もの作り」の気風、実績など。少々身贔屓かなと思える程、先生ならではの郷土愛あふれるお話。また土器の粘土に混じって塗込められた豆の圧痕を研究中のお話など、興味深くてたまりません。
そして今年は若狭三方五湖へ。「私達は石器文化から土器文化へ直結しているような気でいるが、間に木器文化の発達もあるのを忘れてはならない。」との一言にハッとしました。
縄文のタイムカプセルと言われる鳥浜貝塚、世界の奇蹟、7万年のものさしと言われる水月湖の年稿については、山本様、野崎様の詳しく確かな論旨と、みずみずしい筆致の感想を早々とホームページで拝見いたしました。単なる物好きの私の表現すべきことなど、皆無です。ともあれ、最高のお天気に恵まれ、見るもの、聞くものがすべて目新しい、ワクワクするような2日間でした。
さて、ここからは縄文とは別の、私だけのこだわりの雑感ですが、一読していただければ幸いです。
第一日目の目的の見学を終えて、バスはレインボーラインを梅丈岳山頂公園へと上りカーブを繰り返します。多少傾いてきた日射しの当り加減で、山側の崖に密生して光る濃い緑色の葉っぱに、ハッとしました。「椿」です。時期ではないので、花はありませんでしたが、高い雑木の腰丈あたりまで椿の光る葉が、バスの上るにつれて、上へ上へと帯のように伸びて続きます。若狭、椿・・・直木賞作家「水上勉」と連想が繋がりました。実は昭和50年代、私は水上作品の、それも小説より随想ものにより興味を覚え読みあさった時期がありました。彼は、寒村の貧しい棺桶大工の二男に生まれ、9才で口減らしに京都の寺へ小僧に出されます。得度は済ませたものの、辛抱できずに脱出。別の寺へ。立命館大学夜学部を結局は中退。還俗。満州で就職。程なく結核に患り療養のため帰国。徴兵検査は丙種。東京に出たり戻ったり。分教場で助教をしたり。召集令が下り馬2頭の世話係。敗戦。再び上京といった当て所のない暮らしが続き、42才、「雁の寺」で直木賞をもらって世に出るまでの苦労は並大抵ではなかったようです。
幼い日に故郷を離れたための望郷の念からか、「若狭」「若狭」を繰り返し、村の土葬の共同墓地、さんまい谷に近い、竹藪に囲まれて日当たりの悪い家での貧しい暮らしを「これでもか」「これでもか」とばかりに綴っています。葬式で掘り下げた墓穴の底には「椿」の根がびっしりと敷き詰めたように土を這い尽くしていたという描写には、私が自分でその深い穴を覗いて見てしまったようなショックを受けました。園芸店の鉢植え等で見るだけだった、紅く厚ぼったい花びらの椿の地下の根に蓄えられた力の凄さを知ったのです。「これだ!」私は崖に続く椿の群生を見ながら自分に言い聞かせていました。
ついでにもう一つ。ボロ買いの朝鮮人「金さん」の話です。水上の出生地は三方五湖の西が小浜市、更にその西に続く隣町、原発のいくつもある大飯町です。元小浜城主酒井家の末裔が一年生の賢い子に「酒井家賞」という褒美、金一封と半紙二帖をくれたそうです。京都には「若狭の子を貰うなら、小僧に貰うなら「酒井家賞の子を!」という目安があって、彼が9才の時、京都の寺に小僧に行くことになったのです。京都に行けば学問をすることができる。中学へも入れてもらえる。将来は立派な僧侶にもなれるという前途があったらです。その時、父親が仮設住宅を建てて縁のあった金さんが餞別に紙に包んだ小さなかたまりをくれ、そっと開いて見ると50銭玉が入っていたのでびっくり。酒井家賞と同じ位だったようです。貧しい者のやさしさに子どもながらに胸が熱くなったとか。その金さんが父親を呼ぶ時、「ミスカミさん」という場面がありました。私はそこで初めて「ミナカミ」ではなく「ミズカミ」なのだと気付きました。調べてみると、作者紹介欄は両方まちまち。中学校の教科書は「ミナカミ」でした。
その頃私は、松本に住んでいましたが、塩尻に彼の講演会があるのを知り、聴きに行きました。今ではもうテーマも内容も忘れてしまいましたが、帰りに出口でサイン会をしていましたので、思い切ってこの件を質問してみました。彼はニヤリとして、
「どこの出版社かね?」
「東京書籍ですが・・・。」
「けしからんね。」
答はそれだけでした。以来40年。今回の旅行のあと、茅野の図書館で「椿の根」の記述を確かめたいと手にした「植木鉢の土」(03年 小学館)に自ら「みずかみ」としっかり名乗っている所が見つかりました。最後に抜粋させていただきます。
実は水上勉にはもっと世間を賑わせたドラマチックな1件があります。有名な「戦没画学生の作品を収集、展示している上田の「無言館」館主・窪島誠一郎氏が長年「父親探し」の結果、水上勉であったと判明するいきさつですが、これは又、機会があったら・・・ということにさせていただきます。
今回の旅行中、お土産としては幻に終わりましたが、高速SAで食べた「焼鯖ずし」の味を何とか再現したいと、目下挑戦中です。
おかげ様で、八ヶ岳JOMON楽会に参加させていただき、文字通りたっぷりと縄文を楽しむことができ、心から感謝しております。ありがとうございました。
水上勉著 「植木鉢の土」(2003年 小学館)よりの抜粋
わたしの名は、「みずかみつとむ」である。ところが、東京に出てきたとき、皆が皆「みなかみ」さんと呼んだ。水上(みなかみ)温泉(おんせん)が群馬にあるからか、関東の人たちには、水上はみなかみでしかなかった。そして、わたしはいつのまにか、自分でも知らないところで「みなかみつとむ」になった。自分ではずっと「みずかみ」のつもりなのだが。