八ヶ岳 jomon 楽会

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縄文時代の「阿久遺跡(あきゅういせき)」を示しています

 八ヶ岳西南麓の長野県諏訪郡原村にあり、中央道原パーキングエリア北側の尾根上56,000m2に及ぶ広大な遺跡です。青森県の三内丸山遺跡が発掘されるまでは日本一大きい縄文時代の遺跡でした。この遺跡は中央自動車道建設に伴い、1975年(昭和50年)から発掘調査が行なわれた際、大規模な縄文時代前期の環状集石群などが発掘されました。そして1979年(昭和54年)に国史跡に認定されて、現在は埋め戻され「阿久の森」となって静かに眠っています。


 縄文時代は、12,000年以上前から10,000年も続いた争いのない平和な時代でした。人々は大自然の中に溶け込んで、自然と共生共存、エコロジカルでロハスな生活を送っていたようです。この時代、八ヶ岳を中心とした中部山岳地帯は、日本列島の中で最も賑わった場所でした。この地域の縄文時代中期は、国宝土偶「縄文のビーナス」をはじめとして、重要文化財の土器、土偶が数多く見られます。そして、八ヶ岳山麓の縄文文化の原動力となったのが、和田峠周辺で産出される天然のガラス「黒燿石」でした。

 縄文人は毛むくじゃらで、毛皮をまとって野山を駆け回っていた、というイメージを私たちはいつの間にか植え付けられてきました。しかし、近年その定説は覆されてきています。遺物を見ると、女性たちは色鮮やかな朱塗りの櫛を頭に飾り、大きなピアスをつけ、貝の腕輪を付けていたことがわかります。よくなめした柔らかな鹿革や麻,藤で作った服を着ていたようです。ひょっとすると野蚕で編んだ絹の衣を着ていたのかもしれません。食事はドングリ、クリ、クルミにハチミツや干し山ブドウを混ぜてでつくったおやき(パン状のもの)を焼き、鹿肉やヤマドリの薫製やBBQ、豆やエゴマを煮炊きして食べていたと考えられています。縄文人は相当のグルメだったに違いありません。

 縄文の人々は、はるか遠い昔に生きた人々ではなく、ふと、振り返るとそこに立っていて、私たちを見守ってくれているように感じることがあります。日本人の先祖である縄文人は、人に対する思いやりのこころ、自然に対する考え方、接し方などをしっかりと私たちのこころの中に残してくれています。


「八ヶ岳jomon楽会」では

 縄文のこころと文化を学び、学んだ魅力あることを世の中に広く伝えるとともに、会員がお互いに、元気で楽しく学ぶことを大切にします。


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